「宝」は自分の中にすでにある.:*・°☆♪『法華経(ほけきょう)』というお経の中の、たとえ話です。 ある男がいました。 その男は、友人宅へいって、大酒を飲んで、酔いつぶれて、熟睡してしまいました。 そんな中、友人に急用が出来て、その友人は、熟睡している男を置いて、 出かけなければならなくなってしまいました。 友人は、男が目を覚ましてから、生活に不自由することのないように、と、 男の着ている衣服の端に、値段がつけられないほどに高価な宝石を、 縫いこんであげました。 そして、友人は、出かけました。 男は、目を覚ますと、友人がいなくなってしまったことに気付きました。 男は、その家を出て、他の土地へ行きました。 男は、それから、貧乏になり、見るも無惨な姿で、 かろうじて生きている、という有り様に、なってしまいました。 そして、男と友人は、街で、ばったり、再会するのです。 友人は、男のあまりに変わり果てた姿を見て、びっくりしました。 「おい、君。どうしてこんなに貧乏な生活をしてるんだ! 君が、どんな欲望でも満足させるのに十分なほど、 非常に高価な宝石を、君の衣服の端に縫いこんでおいてあげたのだが、 あれはどうしたんだね。 気にしたことはなかったのかね。」 友人は、男に十分に注意した後で、衣服の端に縫いこんだ宝石を取り出して、 男に、見せました。 「さあ、早く、この宝石をもって、大都市へ行くんだ。 そこで、この宝石を売って、その売った金で買えることを何でもしなさい。」 男は、その宝石を見て、最高に安楽な気持ちに満たされました。 男は、それから、倉庫の立ちならぶ富豪となり、満たされた生活を送りました。 実は、この「友人」が「仏(ほとけ)」で、「宝石」とは、「仏の智慧」のこと、 「男」とは、「私たち」、だ、そうです。 この話からいうと、 私たちは、各自、仏さまによって、 「値段がつけられないほどに高価な宝」を、もうすでに備え付けられていて、 その自分に備わった「宝=智慧」に自分で気付けば、 すべてに満たされた「富豪」になれる、ということです。 『法華経』の「五百弟子受記品第八」という所にあるたとえ話 (衣珠喩というらしい←広辞苑「法華七喩」より)です。 以上、参考文献は、岩波文庫『法華経(中)』P115~P121、でした。 (2003年08月22日記) ジャンル別一覧
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